独立行政法人 労働者健康安全機構広島産業保健
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センター通信

産業保健相談員レター 2022年8月 始まりは1981年 -振り返って思うこと-

2022.08.01

産業保健相談員 大塚 文

 私にとって、1981年は2つの意味で特別な年である。1つはソーシャルワーカーとして就職したこと、もう1つは「国際障害者年」である。

 入職した九州労災病院のリハビリテーション科では、働いている患者一人一人について、労働災害・私傷病を問わず、復職や新規就労が検討されていた。作業能力・職場環境のみならず、心理・社会・経済状態をアセスメントし、傷病から起こる生活や仕事上の問題とその緩和について、患者さん・家族・多職種で熱心な話し合いが持たれる。当時すでに理学療法士・作業療法士に加え、言語聴覚士・臨床心理士・ソーシャルワーカーも専門職として存在し、多角的視点での討議が可能だった。患者さんの「これからどう生きるか」「復職できるか」などの悩みにソーシャルワーカーとして関わりながら、その姿から学んだものは数えきれない。若い時から、就労の意義や必要性を含めて「生活すること」を学べたことに、深く感謝している。

 また1981年は、国際連合が「国際障害者年」を宣言した年でもある。障がい者の「完全参加と平等」を目指し、集中的な行動がなされた。その1つとして、アメリカから自立生活運動(Independent Living Movement 以下IL運動)を牽引する障がい者の皆さんが来日し、九州労災病院にも立ち寄った。重度の障がいを持ちつつ力的に活動する彼らに刺激され、その力や影響力に感嘆した。

 その経験から、1986年には、サンフランシスコのCIL(Center for Independent Living)を訪問した。このセンターは、カルフォルニア大学バークレー校の障がいを持つ学生の運動から生まれたIL運動発祥の地である。そこで当事者の力・職業訓練・ピアカウンセリングなど、当時の日本との違いを目の当たりにし、大いに刺激された。社会参加の重要性・多様性の理解・ストレングス視点・共生などの考えは、ここで示唆を受けたものが基盤であり、今も自らのソーシャルワーク実践を支えている。

 1981年から40年が経過した。2000年以降の地域完結型医療への移行で労災病院も急性期化し、リハビリテーション科に蓄積された就労支援の知識・技術・生活視点などが生かされない時期もあった。しかしその後、「勤労者医療」へと舵が切られ、私自身も微力ながら、「治療と仕事の両立支援(以下、両立支援)」などに関わらせていただいた。

 現在は教員の傍ら、産業保健総合支援センター両立支援担当の産業保健相談員である。医療機関と産業保健における支援では視点が異なることもあるが、基本的な考えは同じであり、労働者・企業・医療機関の協働・連携が益々強化される必要性を痛感している。

 復職に悩んだり、就労に関する支援でお困りのときは産業保健総合支援センターにご連絡いただければと思う。労働者・企業・医療機関を結び「働くこと」を支える役割の一翼を担っており、必要な専門職や他機関などとも協力しつつ、「一緒に考える・悩む・整理する」などで、少しでもお役に立てれば幸いである。